2017-11

生活を続けるということ

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。


夏目漱石が『草枕』の冒頭で語ったように、生きていくのはあまり楽ではない。一日一日生活を続けていくには、(あまりに大変すぎると困るのだが)やはりいくらかの努力は要する。そんな毎日の中で、たまたま出会った「何か」に少し力をもらい、それに背中を押されてまた生活の歩みを続ける、ということが時々ある。その「何か」は、家族や職場仲間との何気無い会話だったり、テレビ番組の一シーンだったりと様々なのだが、ここでは「言葉」に絞って幾つか集めてみた。

ここで、もう一つ序でに驚いて置くのが有益である。それは、モオツァルトの作品の、殆どすべてのものは、世間の愚劣な偶然な或は不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだという事である。制作とは、その場その場の取引であり、予め一定の目的を定め、計画を案じ、一つの作品について熟慮専念するという様な時間は、彼の生涯には絶えて無かったのである。而も、彼は、そういう事について一片の不平らしい言葉も遺してはいない。小林秀雄『モオツァルト』(『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫)所収)より


彼とはモーツァルトのことで、モーツァルトほどの天才にして、仕事は顧客からの要求に応ずるという形で行われていた、つまり顧客主導だったわけだ。しかも、それについて一言も不平を言っていないようなのだ。一介のサラリーマンの自分が仕事をしていく中で、顧客や上司などから少々理不尽な要求があるのはあたりまえ。とりあえずは不平を言わずに、それを受け入れて、その後で、どうすればそれに対応できるかをじっくり考える、ということを続けていくしかないか...と、小林秀雄の著作の中でも僕が最も好み繰り返し読んでいる『モオツァルト』のこの部分を読むたびに、吹っ切れて少し元気が出る。ところで、小林秀雄は、よほどこの「その場その場の取引」という表現が気に入ったのだろう。このすぐ後の箇所でも同じ字句を、さらに二回も繰り返している。

もう一つ小林秀雄から。

無常な人間と常住の自然とのはっきりした出会い...を「平家」ほど、大きな、鋭い形で現した文学は後にも先にもあるまい。これは、「平家」によって守られた整然たる秩序だったとさえ言えよう。また、其処に、日本人なら誰も身体で知っていた、深い安堵があると言えよう。それこそまさしく聞くものを、新しい生活に誘う平家の力だったのではあるまいか。「平家」の命の長さの秘密は、その辺りにあるのではあるまいか。小林秀雄『平家物語』(『考えるヒント』(新潮文庫)所収)より


僕自身、平家物語は、高校の古典で習っただけだが、小林秀雄にこのように言われると、そうなんだろうなと思う。あの長大な平家物語を論じて、他の何ものでもなく、「人々を新しい生活に誘う力」に、この古典の存在意義があると結論付けている。氏は平家物語が好きだったようで、上記のエッセイのほかにも、戦前に書いた同名のエッセイがあり、こちらにも、

傍若無人な無邪気さがあり、気持ちのよい無頓着さがある。

というような、魅力的な表現があり、読ませてくれる。『モオツァルト』からも、『平家物語』からも、小林秀雄の、生活者への暖かく優しい眼差しが感じられ、これが元気を与えてくれる。

次は、19世紀から20世紀初頭に生きたスイスの哲人カール・ヒルティの言葉から。

あまり働きすぎてはならない。また一般に、秩序ある暮し方をすれば、その必要もない。一方、適度な仕事は、力を維持する最上の方法であり、また非活動的な力やたるんだ力を救う唯一の、無害な刺戟剤でもある。カール・ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫)より


『眠られぬ夜のために』は、ヒルティによる1901年の随筆集だが、今の世でも日々の生活に活かせるような数々の助言が、押しつけがましくない口調で述べられている。1日1つずつで365日分のエッセイからなり、上記引用は、その1月3日分からのものだ。仕事を続けることの大切さを教えてくれるだけでなく、仕事があまりに過密になったとき、この言葉を思い出して、バランスを回復するための対処策を考えたりするきっかけとなっている。

次は、僕の大好きなスティーブン・ジェイ・グールドの科学エッセイの一節から。

われわれの敵はファンダメンタリストなのではなく、偏狭さなのだということである。...デイトンに集まった報道関係者たちは...みな一様に、デイトンの人々は創造説を信奉しているのに、見解を異にする側に対しては偏狭さも示さないし、無礼な態度すら見せないことに気づいた。...デイトンの町は、その温情を保持していた。スティーブン・ジェイ・グールド『デイトン探訪』(『ニワトリの歯(下)』(ハヤカワ文庫)所収)より


1925年のスコープス裁判の舞台となったジョージア州の田舎町デイトンを、進化生物学と科学史が専門のハーバード大学教授であった著者が1981年に訪れて書いたエッセイの一部だ。スコープス裁判とは、進化理論を高校の生物の授業で教えることを禁じたジョージア州法に違反した教師が訴えられた裁判だ。なぜこのような常識外とも見えるような州法が成立したかというと、米国南部のジョージア州には、すべての生物はおよそ六千年前に神が創造したとする創造説を信じる、所謂ファンダメンタリストと呼ばれる保守的なキリスト教徒が(現在でも)相当数いるためだ。もちろん、著者は、このような創造説に反対する立場に立つ。その上で、創造説を信奉するデイトンの町の人々にも、このような、優れた科学者らしい公平な見方で接している。真面目に暮らす人々への、信教の違いを超えた優しく温かい眼差しに元気づけられる。

次は、書籍ではなく、高校時代の同級生で、地元金沢で祖父の代から続く地場証券会社を経営している竹松俊一氏の実名によるブログだ。公私ともにお忙しいと思われるのだが、ただの一日も欠かさずに書いておられる。毎日読むわけではないが、少し疲れ気味な朝などに、通勤電車に乗りながらそのユーモアーのある明快で簡潔な文章を楽しんでいる。個々の記事の内容もさることながら、毎日欠かさず書く、という継続性そのものに感銘を受ける。生活を続けていくことがどのようなことなのかを具体的な形で提示してくれるブログだ。

最後に、歌を一つ。今や国民的アイドルと呼ばれるほどの人気グループ、嵐の『Happiness』という歌のサビの部分だ。

♫走り出せ、走り出せ、明日を迎えに行こう♫
♫止めないで、止めないで、今を動かす気持ち♫


「明日を迎えに行こう」も「今を動かす気持ち」も、聴くほどに味わいがでてくる良い言葉だ。こんな魅力的な歌詞が、軽快な曲に載り、5人の好青年たちの楽しげなダンスを伴って歌われる。前向きな気持ちにさせてくれる佳曲だ。

とかく住みにくい人の世ではあるが、悪いことばかりではない。息切れしないくらいの快適な速さ(あるいは、遅さ)で走り出して、今を動かし、明日を迎えに行こう。
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内之助

Author:内之助
マラソンは、2008年12月のホノルル・マラソンをもって、全米全州(50州+DC)でフル・マラソンを夫婦で完走。その後、トレイルでのウルトラ・マラソンを経て、今はタイムを気にしなくても良い登山やハイキングを楽しんでいる。
音楽は、中学校1年生の時に、FMで偶然耳にしたモーツァルトの喜遊曲がきっかけでクラシックにのめり込む。
読書は、ノンフィクション中心に、同じ著者のものをまとめて読む傾向あり。小林秀雄、吉田秀和、カール・ヒルティ、スティーヴン・ジェイ・グールド、内田樹、茂木健一郎など。
仕事はサラリーマン。1995年以来ニューヨーク市郊外在住。

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