2014-12

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ドヴォルザーク作曲弦楽四重奏曲第12番ヘ長調 作品96「アメリカ」

ドヴォルザークの曲といえば、新世界交響曲が有名だ。確かに、フル・オーケストラが大音響を響かせる交響曲も魅力だが、今日は、弦楽奏者4人だけで、小ぢんまりと奏でられる弦楽四重奏曲「アメリカ」を取り上げる。ドヴォルザークらしい親しみやすく魅力的なメロディーが満載の佳曲だ。

第一楽章 アレグロ・マ・ノントロッポ (快速に、でも速すぎずに)
トレモロの短い序奏の後すぐに、単刀直入に、何とも人懐っこい感じの民謡調の第一主題が軽快に奏されて、この曲が作曲された19世紀アメリカの田舎の世界へと、一気に引き込まれる。これに劣らず人懐っい第二主題も心に沁み入るような魅力を持つ。

第二楽章 レント(遅く)
ネイティブ・アメリカンの古老が訥々と昔話を語っているような、素朴な、そして、いつか夢で見たような気にさせる不思議な懐かしさを呼び起こしてくれる曲だ。

第三楽章 モルト・ヴィヴァーチェ (極めて、速く生き生きと)
とぎれとぎれの曲想は、素朴で、ややたどたどしいステップを踏んで踊る田舎の農夫たちを想像させる。同じリズムが速度を落として奏される部分は、踊る人々の背景はるか彼方に、小さくしかしくっきりと見える雪を頂いた山々の稜線を型どっているように、僕には聞こえる。

第四楽章 ヴィヴァーチェ・マ・ノントロッポ(速く生き生きと、でも速すぎずに)
ドヴォルザークが大好きだった蒸気機関車で、アメリカ中西部の大草原を旅しているような、心浮き立つ曲だ。車窓から見える景色がどんどん後ろに通り過ぎていくような快調な曲想。ピツィカートの伴奏が、シュッポ、シュッポと聞こえて楽しい。

最近、この曲に、木管五重奏用に編曲されたヴァージョン(編曲者はドヴォルザークではない)があるのを見つけた。フルート、オーボエ、クラリネット、ホルンそれにファゴットの合奏によって演奏されるのだが、これが、まさに木の温もりを感じさせてくれて素晴らしい。原曲のひなびた曲調が、5種類の木管楽器それぞれの音色によって少しカラフルになるのが楽しい。
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『東京物語』(小津安二郎 監督、1953年 松竹映画)

初めて『東京物語』を観て、人の「属性」というものについて考えた。以下、ネタバレしないように気を付けながら書きます。

この映画を観て気が付いたことの一つは、すべての登場人物の職業、住居、家族構成など、その人の属性が極めて具体的に述べられていることだった。主役・準主役・脇役の人々はもちろん、ストーリーにほとんど影響しないほんのチョイ役、たとえば、ある脇役の家の下宿人さえ、法学部の大学生で仕送りで生活しているのにパチンコばかりして遊んでいる人、という風に事細かにその人の属性が述べられる。

よく、「人は見かけによらない」という。僕はこの言葉を、「人に接するときには、その人の見かけ、つまり顔形や、喋り方、あるいは社会的地位など、外から見えるもの、すなわち、属性を重視してはいけない。その人の内面こそが大事だ」というような意味だと思ってきた。

ところが、この映画の中で、ああもあっけらかんと、一人ひとりの属性が明らかにされると、もしかしたら、自分は、「属性」というものを、まるで見てはいけないものであるかのように、見ないように避けてきたのではないか、という思いが湧いてきた。もうすこし、属性というものとちゃんと向き合い、丁寧に付き合っていかなければならないのではないか、と。

「人は見かけによらない」という言葉は、人を見かけで判断するな、というよりも、むしろ、人を判断すること、あの人はこういう人だと判ったように思ってしまうことへの戒めなのだと思う。「見かけ」自体は、その人の属性として厳としてその人にくっついているものであって、それは無視すべきものではなく、むしろ尊重すべきものなのだと思う。これは、自分の属性についてもあてはまる。自分の属性を、単に、隠すべきものというような矮小な存在に貶めることなく、それと丁寧に付き合っていきたい。


マラソンの途中で歩くということ

マラソンの途中で歩くなんて、とんでもない根性無しのやることだ、と数年前まで思っていた。
しかし、ロードレースからトレイルランにシフトしてからは、全く逆の考え方に変わった。マラソンの途中で疲れたら歩くにこしたことはない、というふうに。

そもそも、トレイルランでは、絶対に走れないような急な上りや、ちょっとでも躓いたり足首を捻ったりすると大怪我につながるような足場の悪い下りの連続なので、否応なしにコース上で歩くことがしばしばある。そしてレース後半、疲れて歩いている時に、大変良い事が起こるのだ。つまり、疲れが取れて少し元気が出るのだ。走るときに使う筋肉と歩くときに使う筋肉とは微妙に違うようで、走り疲れたときに、しばらく歩くことで、走るときに使う筋肉の疲労が少し回復して、また走れるようになるのだ。考えてみれば(あるいは考えくても)、疲れたら休む、休むことで回復するというのは、ごく当たり前のことだ。しかも、止まってしまうわけではないので、歩いてさえいればゴールは確実に近づいてくる。

ところが、これがロードレースだと、僕自身そうだったように、いくら疲れても、歩くことへの抵抗感のためや、脇を走り抜けていく他のランナーたちへの負けん気や、沿道で声援してくれている人たちへの見得などのために、なかなか歩けないものだ。何とか根性で乗り切ろうとする。自分の精神力の限界を試す、というのも確かにマラソンをする「楽しみ」の一つなのだが、しかし、疲れても走り続けると、そのうち、極度の疲労状態すなわち「壁」に突き当たって歩くのもままならない状態になるし、下手をすれば、肉離れなどの故障にもつながる。

スポーツは、自分の身体との会話だと僕は思う。今の世の中、機械化・IT化が進み、日常生活や仕事から肉体的な活動がどんどん減り、精神的な活動ばかりが増えていく。だからこそ、余暇にスポーツをして、純粋に自分の身体だけと向き合う時間を持つことで、精神と身体のバランスを回復して精神的なストレスを和らげようとする。ところがそのスポーツにまで、ともすれば、強い精神力の発揮を説く傾向がないだろうか。そして多くの場合、この「精神力の発揮」を、きつくても我慢すること、ととらえるきらいがあるように思う。スポーツをする時に、我慢する、ということは、せっかく自分の身体との会話によって感知した「疲労感」を無視しようとすることに等しい。これは、せっかくスポーツをすることで実現できた「自分の身体との会話」を自ら断つ、ということに他ならないにもかかわらず、疲れても走り続けることが美徳とされる。これでは、走ることすらも、精神的な活動の一つとなってしまい、ストレスの解消といった効果もあまり期待できなくなるだろう。

走り疲れたら歩く、ということを実践するためには、まず、「疲れた」という自分の身体が発するSOS信号を間違いなく受信しなくてはならない。そのために、身体とこまめに会話することが大切だ。
僕 「そろそろ疲れた?」
僕の身体 「ああ、ちょっとね」
僕 「少し歩く?」
僕の身体 「そうしてくれると助かるね」
というような具合に。そして、歩いているうちに、少しづつ疲れが引いていくときの感じも、これまた悪くないものだ。この感覚は、走り続けるだけでは得られない心地よさ、楽しさだ。

そして、この、疲れたら歩く、という発想は、意外にもロードレースでのタイムを縮めるのにも役に立つ。より速く走れるようになるには、やはり、負荷をかけた練習が必要なのは言うまでもない。ある速さ以上を目標にする場合、練習で「無理」をしなくてはタイムは伸びない。ここで大切なのは、「どこまで」無理をするか、だ。日頃から、自分の身体との会話を心がけて、自分の身体が発する「疲れた」という信号を聞き逃さないようにしていると、練習でも、これ以上無理をすると故障してしまうかも、という瞬間を察知しやすくなる。速くなりたい一心で猛練習に励むあまり、自分の身体の限界を超えてしまい、故障して、何週間も走れなくなり、せっかくのそれまでの努力が水泡に帰す、といった苦い経験が僕にもある。疲れたら歩く、という発想があれば、そのような失敗を避けることもできたかもしれない。

ランニングにとどまらず、実生活でも、疲れたら歩く、を心がけていきたい。

読書離れ

ニューヨークでは朝6時半から放映されているNHKのクローズアップ現代で、若者の読書離れを取り上げていた。

スマホ等により、インターネットから手軽に多くの情報を得られるようになり、それに依存するあまり、読書をあまりしなくなっている、ということだ。大学生が論文などを書く際にも、その大部分がウェブサイトからのコピペで、自分の意見は、ごくわずかで内容も極めて稚拙、という事例を、実際に、ある大学教授に提出された論文を使って紹介していた。確かにひどい論文だった。一方で、数々の学術書に当たって論文を仕上げた学生が、良い例として取り上げられていた。読書をする中で、論文の骨子にするにふさわしい重要な論点を見つけ、それについて自分なりに考察を深めて、新しい視点を盛り込んだ論文を書けた、という事例だった。

そのあと、もう一つ脳科学者への取材(この部分は、横目で見ていただけなので、詳細は覚えていないが、読書は脳の視覚野も刺激する、というような内容だったようだ。)のあと、ゲストの登場だ。今日のゲストは、立花隆。俄然、期待が高まる。国谷裕子の最初の質問は、「立花さんが今、大学生だったら、どんなふうにして論文を書きますか?」うーん、さすが国谷さん、うまい質問。ところが立花氏、一瞬考えたあと、「スマホでのネット検索を大いに活用しているでしょう。インターネット上の情報は、あのアレキサンドリア図書館に、誰もが居ながらにしてアクセスできるようなものだ。利用しないほうがもったいないし、どうやって有効活用するかは、使う人の工夫次第だ。」という趣旨の回答をするではないか。インターネット普及を読書離れの元凶にしたかったNHKの目論見を見透かしたかのように、多様な人々が生きるネット社会礼賛の方向へ議論をもって行った。立花さんの確信犯的な発言とみた。ますます面白くなってきたのだが、生放送のこの番組の放映時間もあと10分ほどしか残っていない。国谷さん、この窮地をいかに凌ぐのか?ここで起死回生の質問を繰り出した。「ところで、立花さんはご自分の学生時代には、どのようにして勉強しましたか?」と、話をネットの無かった時代に戻したのだ。それに対する立花さんの答えは、もちろん「本を読むことが中心でしたね。」これで議論は、再び、今日のテーマ「読書」に見事に回帰した。その後は、立花さんから「本は論文を書くというような「知」の領域での価値があるだけでなく、感情を動かしてくれる「情」や人間の意思「意」について学ぶ機会を与えてくれる、まさに総合的なメディアだ」というような、読書の価値を伝えたかったNHKには何とも「美味しい」発言も出た。(これも氏の、さっきとは逆の方向での、番組をまとめるための確信犯的発言だったと思う。)

出勤前の慌ただしい時間帯ではあったが、今日は朝から、短時間ながら見応えのある議論の場に接することができたことに感謝。

ところで、今日のテーマだった「若者の読書離れ」そのものについてだが、インターネット普及によって、僕はむしろ若者の読書量は増えているのではないか、と思っている。出版業界の売上高は確かに減少しているのだろうが、もしインターネットが普及していなければ、もっと減っていたかもしれない。むしろ、ブログやSNSなど、書く機会が増えたことで、ウェブサイト閲覧を含む「読む」機会そのものは増えているはずだ。読むことがより日常化した社会では、本への需要が増えてもよいはずだ。出版業界の不振は、むしろ、供給側である出版業界が良い本を出版していないからではないだろうか?もちろんこれは憶測に過ぎないが、今後、本について考える時の仮説の一つとして、日頃から気に留めておこうと思う。

生活を続けるということ

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。


夏目漱石が『草枕』の冒頭で語ったように、生きていくのはあまり楽ではない。一日一日生活を続けていくには、(あまりに大変すぎると困るのだが)やはりいくらかの努力は要する。そんな毎日の中で、たまたま出会った「何か」に少し力をもらい、それに背中を押されてまた生活の歩みを続ける、ということが時々ある。その「何か」は、家族や職場仲間との何気無い会話だったり、テレビ番組の一シーンだったりと様々なのだが、ここでは「言葉」に絞って幾つか集めてみた。

ここで、もう一つ序でに驚いて置くのが有益である。それは、モオツァルトの作品の、殆どすべてのものは、世間の愚劣な偶然な或は不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだという事である。制作とは、その場その場の取引であり、予め一定の目的を定め、計画を案じ、一つの作品について熟慮専念するという様な時間は、彼の生涯には絶えて無かったのである。而も、彼は、そういう事について一片の不平らしい言葉も遺してはいない。小林秀雄『モオツァルト』(『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫)所収)より


彼とはモーツァルトのことで、モーツァルトほどの天才にして、仕事は顧客からの要求に応ずるという形で行われていた、つまり顧客主導だったわけだ。しかも、それについて一言も不平を言っていないようなのだ。一介のサラリーマンの自分が仕事をしていく中で、顧客や上司などから少々理不尽な要求があるのはあたりまえ。とりあえずは不平を言わずに、それを受け入れて、その後で、どうすればそれに対応できるかをじっくり考える、ということを続けていくしかないか...と、小林秀雄の著作の中でも僕が最も好み繰り返し読んでいる『モオツァルト』のこの部分を読むたびに、吹っ切れて少し元気が出る。ところで、小林秀雄は、よほどこの「その場その場の取引」という表現が気に入ったのだろう。このすぐ後の箇所でも同じ字句を、さらに二回も繰り返している。

もう一つ小林秀雄から。

無常な人間と常住の自然とのはっきりした出会い...を「平家」ほど、大きな、鋭い形で現した文学は後にも先にもあるまい。これは、「平家」によって守られた整然たる秩序だったとさえ言えよう。また、其処に、日本人なら誰も身体で知っていた、深い安堵があると言えよう。それこそまさしく聞くものを、新しい生活に誘う平家の力だったのではあるまいか。「平家」の命の長さの秘密は、その辺りにあるのではあるまいか。小林秀雄『平家物語』(『考えるヒント』(新潮文庫)所収)より


僕自身、平家物語は、高校の古典で習っただけだが、小林秀雄にこのように言われると、そうなんだろうなと思う。あの長大な平家物語を論じて、他の何ものでもなく、「人々を新しい生活に誘う力」に、この古典の存在意義があると結論付けている。氏は平家物語が好きだったようで、上記のエッセイのほかにも、戦前に書いた同名のエッセイがあり、こちらにも、

傍若無人な無邪気さがあり、気持ちのよい無頓着さがある。

というような、魅力的な表現があり、読ませてくれる。『モオツァルト』からも、『平家物語』からも、小林秀雄の、生活者への暖かく優しい眼差しが感じられ、これが元気を与えてくれる。

次は、19世紀から20世紀初頭に生きたスイスの哲人カール・ヒルティの言葉から。

あまり働きすぎてはならない。また一般に、秩序ある暮し方をすれば、その必要もない。一方、適度な仕事は、力を維持する最上の方法であり、また非活動的な力やたるんだ力を救う唯一の、無害な刺戟剤でもある。カール・ヒルティ(草間平作・大和邦太郎訳)『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫)より


『眠られぬ夜のために』は、ヒルティによる1901年の随筆集だが、今の世でも日々の生活に活かせるような数々の助言が、押しつけがましくない口調で述べられている。1日1つずつで365日分のエッセイからなり、上記引用は、その1月3日分からのものだ。仕事を続けることの大切さを教えてくれるだけでなく、仕事があまりに過密になったとき、この言葉を思い出して、バランスを回復するための対処策を考えたりするきっかけとなっている。

次は、僕の大好きなスティーブン・ジェイ・グールドの科学エッセイの一節から。

われわれの敵はファンダメンタリストなのではなく、偏狭さなのだということである。...デイトンに集まった報道関係者たちは...みな一様に、デイトンの人々は創造説を信奉しているのに、見解を異にする側に対しては偏狭さも示さないし、無礼な態度すら見せないことに気づいた。...デイトンの町は、その温情を保持していた。スティーブン・ジェイ・グールド『デイトン探訪』(『ニワトリの歯(下)』(ハヤカワ文庫)所収)より


1925年のスコープス裁判の舞台となったジョージア州の田舎町デイトンを、進化生物学と科学史が専門のハーバード大学教授であった著者が1981年に訪れて書いたエッセイの一部だ。スコープス裁判とは、進化理論を高校の生物の授業で教えることを禁じたジョージア州法に違反した教師が訴えられた裁判だ。なぜこのような常識外とも見えるような州法が成立したかというと、米国南部のジョージア州には、すべての生物はおよそ六千年前に神が創造したとする創造説を信じる、所謂ファンダメンタリストと呼ばれる保守的なキリスト教徒が(現在でも)相当数いるためだ。もちろん、著者は、このような創造説に反対する立場に立つ。その上で、創造説を信奉するデイトンの町の人々にも、このような、優れた科学者らしい公平な見方で接している。真面目に暮らす人々への、信教の違いを超えた優しく温かい眼差しに元気づけられる。

次は、書籍ではなく、高校時代の同級生で、地元金沢で祖父の代から続く地場証券会社を経営している竹松俊一氏の実名によるブログだ。公私ともにお忙しいと思われるのだが、ただの一日も欠かさずに書いておられる。毎日読むわけではないが、少し疲れ気味な朝などに、通勤電車に乗りながらそのユーモアーのある明快で簡潔な文章を楽しんでいる。個々の記事の内容もさることながら、毎日欠かさず書く、という継続性そのものに感銘を受ける。生活を続けていくことがどのようなことなのかを具体的な形で提示してくれるブログだ。

最後に、歌を一つ。今や国民的アイドルと呼ばれるほどの人気グループ、嵐の『Happiness』という歌のサビの部分だ。

♫走り出せ、走り出せ、明日を迎えに行こう♫
♫止めないで、止めないで、今を動かす気持ち♫


「明日を迎えに行こう」も「今を動かす気持ち」も、聴くほどに味わいがでてくる良い言葉だ。こんな魅力的な歌詞が、軽快な曲に載り、5人の好青年たちの楽しげなダンスを伴って歌われる。前向きな気持ちにさせてくれる佳曲だ。

とかく住みにくい人の世ではあるが、悪いことばかりではない。息切れしないくらいの快適な速さ(あるいは、遅さ)で走り出して、今を動かし、明日を迎えに行こう。

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プロフィール

内之助

Author:内之助
マラソンは、2008年12月のホノルル・マラソンをもって、全米全州(50州+DC)でフル・マラソンを夫婦で完走。今は、トレイルでのウルトラ・マラソンを楽しんでいる。
音楽は、中学校1年生の時に、FMで偶然耳にしたモーツァルトの喜遊曲がきっかけでクラシックにのめり込む。
読書は、ノンフィクション中心に、同じ著者のものをまとめて読む傾向あり。小林秀雄、吉田秀和、カール・ヒルティ、スティーヴン・ジェイ・グールド、内田樹、茂木健一郎など。
仕事はサラリーマン。1995年以来ニューヨーク市郊外在住。

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