2017-05

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『東京物語』(小津安二郎 監督、1953年 松竹映画)

初めて『東京物語』を観て、人の「属性」というものについて考えた。以下、ネタバレしないように気を付けながら書きます。

この映画を観て気が付いたことの一つは、すべての登場人物の職業、住居、家族構成など、その人の属性が極めて具体的に述べられていることだった。主役・準主役・脇役の人々はもちろん、ストーリーにほとんど影響しないほんのチョイ役、たとえば、ある脇役の家の下宿人さえ、法学部の大学生で仕送りで生活しているのにパチンコばかりして遊んでいる人、という風に事細かにその人の属性が述べられる。

よく、「人は見かけによらない」という。僕はこの言葉を、「人に接するときには、その人の見かけ、つまり顔形や、喋り方、あるいは社会的地位など、外から見えるもの、すなわち、属性を重視してはいけない。その人の内面こそが大事だ」というような意味だと思ってきた。

ところが、この映画の中で、ああもあっけらかんと、一人ひとりの属性が明らかにされると、もしかしたら、自分は、「属性」というものを、まるで見てはいけないものであるかのように、見ないように避けてきたのではないか、という思いが湧いてきた。もうすこし、属性というものとちゃんと向き合い、丁寧に付き合っていかなければならないのではないか、と。

「人は見かけによらない」という言葉は、人を見かけで判断するな、というよりも、むしろ、人を判断すること、あの人はこういう人だと判ったように思ってしまうことへの戒めなのだと思う。「見かけ」自体は、その人の属性として厳としてその人にくっついているものであって、それは無視すべきものではなく、むしろ尊重すべきものなのだと思う。これは、自分の属性についてもあてはまる。自分の属性を、単に、隠すべきものというような矮小な存在に貶めることなく、それと丁寧に付き合っていきたい。


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読書離れ

ニューヨークでは朝6時半から放映されているNHKのクローズアップ現代で、若者の読書離れを取り上げていた。

スマホ等により、インターネットから手軽に多くの情報を得られるようになり、それに依存するあまり、読書をあまりしなくなっている、ということだ。大学生が論文などを書く際にも、その大部分がウェブサイトからのコピペで、自分の意見は、ごくわずかで内容も極めて稚拙、という事例を、実際に、ある大学教授に提出された論文を使って紹介していた。確かにひどい論文だった。一方で、数々の学術書に当たって論文を仕上げた学生が、良い例として取り上げられていた。読書をする中で、論文の骨子にするにふさわしい重要な論点を見つけ、それについて自分なりに考察を深めて、新しい視点を盛り込んだ論文を書けた、という事例だった。

そのあと、もう一つ脳科学者への取材(この部分は、横目で見ていただけなので、詳細は覚えていないが、読書は脳の視覚野も刺激する、というような内容だったようだ。)のあと、ゲストの登場だ。今日のゲストは、立花隆。俄然、期待が高まる。国谷裕子の最初の質問は、「立花さんが今、大学生だったら、どんなふうにして論文を書きますか?」うーん、さすが国谷さん、うまい質問。ところが立花氏、一瞬考えたあと、「スマホでのネット検索を大いに活用しているでしょう。インターネット上の情報は、あのアレキサンドリア図書館に、誰もが居ながらにしてアクセスできるようなものだ。利用しないほうがもったいないし、どうやって有効活用するかは、使う人の工夫次第だ。」という趣旨の回答をするではないか。インターネット普及を読書離れの元凶にしたかったNHKの目論見を見透かしたかのように、多様な人々が生きるネット社会礼賛の方向へ議論をもって行った。立花さんの確信犯的な発言とみた。ますます面白くなってきたのだが、生放送のこの番組の放映時間もあと10分ほどしか残っていない。国谷さん、この窮地をいかに凌ぐのか?ここで起死回生の質問を繰り出した。「ところで、立花さんはご自分の学生時代には、どのようにして勉強しましたか?」と、話をネットの無かった時代に戻したのだ。それに対する立花さんの答えは、もちろん「本を読むことが中心でしたね。」これで議論は、再び、今日のテーマ「読書」に見事に回帰した。その後は、立花さんから「本は論文を書くというような「知」の領域での価値があるだけでなく、感情を動かしてくれる「情」や人間の意思「意」について学ぶ機会を与えてくれる、まさに総合的なメディアだ」というような、読書の価値を伝えたかったNHKには何とも「美味しい」発言も出た。(これも氏の、さっきとは逆の方向での、番組をまとめるための確信犯的発言だったと思う。)

出勤前の慌ただしい時間帯ではあったが、今日は朝から、短時間ながら見応えのある議論の場に接することができたことに感謝。

ところで、今日のテーマだった「若者の読書離れ」そのものについてだが、インターネット普及によって、僕はむしろ若者の読書量は増えているのではないか、と思っている。出版業界の売上高は確かに減少しているのだろうが、もしインターネットが普及していなければ、もっと減っていたかもしれない。むしろ、ブログやSNSなど、書く機会が増えたことで、ウェブサイト閲覧を含む「読む」機会そのものは増えているはずだ。読むことがより日常化した社会では、本への需要が増えてもよいはずだ。出版業界の不振は、むしろ、供給側である出版業界が良い本を出版していないからではないだろうか?もちろんこれは憶測に過ぎないが、今後、本について考える時の仮説の一つとして、日頃から気に留めておこうと思う。

硫黄島からの手紙 (映画 2006年 クリント・イーストウッド監督)

(以下のブログ内には映画のストーリーについての記述があります)

終戦記念日に因んで、映画『硫黄島からの手紙』を観た。

硫黄島は、東京から南へ1,250キロに位置する火山島だ。すでに太平洋上の軍事拠点を次々に失って、敗色が明らかになってきた1944年当時の日本にとって、硫黄島は、本土攻撃阻止のための最後の砦となっていた。この映画は、栗林陸軍中将(渡辺謙)がこの島に駐留軍トップとして赴任した1944年6月から、翌1945年4月に激戦の末日本軍がほぼ全滅し米軍に制圧されるまでの約10か月間の日本軍の苦闘を、栗林中将と、応召兵で元パン屋の西郷陸軍一等兵(二宮和也)を中心に描いている。

戦争映画なので、当然、激しい戦闘シーンや自爆シーンもあるのだが、画像の色調(特に血の色)が一貫して抑えられているためか、不快感を催すような衝撃的な描写になっていないのが良かった。

むしろ、描写の中心となっているのは、そのような極限状態に投げ込まれた人々の苦悩、迷い、恐れ、希望、自暴自棄、諦めなど様々な心の動きだ。たとえば、栗林中将が、水・食糧・武器弾薬が枯渇する中で、圧倒的な兵力を擁する米軍との戦いを強いられるという絶望的な状況においてもなお、部下兵士たちの命を預かる者として誠実に職務を遂行しようと様子や、西郷と仲間の兵士たちとの友情や衝突、そして、西郷が、本土に残してきた妻と娘に何度も手紙を書くことで心の平安を得られるというシーンなどだ。

西郷が営むような小さなパン屋までが、金属供出として国にパン焼き器を取り上げられたり、憲兵に向かって吠えたというだけで、飼い主親子の目の前でその飼い犬を、憲兵が射殺したり、というようなことが行われていた狂気の時代においては、西郷が表わすような家族への思いやりといった、平時ならば自然に持ち合わているような気持ちを保つことさえ難しくなる。ましてや、硫黄島などという究極の狂気の世界で、正常な心を保つことはいかに困難なことか。栗林中将と西郷は、そのような困難なことをなしえた数少ない人間だった。二人に共通するのは、家族への手紙を頻繁に書いていたことだ。本土との交通が途絶えた硫黄島で書いた手紙が、本土に届けられないことは、彼らも分かってる。でも書かずにはいられない。書くことで正常な心が保てる、という自己防衛本能とでもいうような衝動に突き動かされていたのだろう。

この映画の中で、ほかに強く印象に残ったシーンは、硫黄島への米軍上陸後、投降してきた日本軍兵士2人を徹夜で見張ることを命じられた下級米兵2人が、その任務に気乗りがしないという理由だけから、その日本軍兵士2人を何のためらいもなく銃殺する場面だ。米国人であるイーストウッド監督が、このような米国軍の恥部ともいえるようなシーンを敢えて加えたのはなぜだろうか。思うに、戦場という極限状況においては、結果的に勝った方も、結果的に負けた方も、同じように残虐で不道徳な行為を行っていたはずだ、ということを言いたかったのではないだろうか。同じような行為をしていながら、勝てばすべての行為が賞賛され、負ければ全ての行為が非難される、という戦争が内在する不合理さ。人が人の命を積極的に奪い合うという行為を、合理的に咀嚼する能力を、人間の理性はまだ持ち合わせていないようだ。

だから、当然のように、敗戦国である日本が戦争中に取った行為は、今まで全て非難され糾弾されてきた。日本人の間でも、このことは当たり前のこと、しかたがないこと、と思うことが一般的となっているように思われる。しかし、この映画の中では、栗林中将や西郷の言動は、人間の持つ普遍的な強さとして明らかに肯定的に描かれている。日本人が戦争中に取った行為は、決して全て否定されるようなものばかりではない、ということを、静かに語ってくれている。

この映画は、戦争で無念に命を失った日本人たちへの、米国人イーストウッド監督からの真摯な供養だ。

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プロフィール

内之助

Author:内之助
マラソンは、2008年12月のホノルル・マラソンをもって、全米全州(50州+DC)でフル・マラソンを夫婦で完走。今は、トレイルでのウルトラ・マラソンを楽しんでいる。
音楽は、中学校1年生の時に、FMで偶然耳にしたモーツァルトの喜遊曲がきっかけでクラシックにのめり込む。
読書は、ノンフィクション中心に、同じ著者のものをまとめて読む傾向あり。小林秀雄、吉田秀和、カール・ヒルティ、スティーヴン・ジェイ・グールド、内田樹、茂木健一郎など。
仕事はサラリーマン。1995年以来ニューヨーク市郊外在住。

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