2017-09

「拒否できない日本」 (関岡英之著 文春新書 2004年4月刊)を読んで

著者の嫌米感情が色濃く出た著作だ。たとえば、本書の終結部には下記のような記述がある。

あこぎな競争に躍起となり、ひたすら勝つことばかりに血眼になっている浅ましきアメリカ人よ。いまよりももっと贅沢をしたいのか。これ以上いったい何を望むのか。もう、充分ではないか。わたしたちはつき合いきれない、放っておいてくれ、頼むからこの小さな惑星の静謐を掻き乱さないでくれ。

さすがにここまで激しい怒りの表出にはやや閉口するが、この本はそのような感情論が並べられただけのものでは、もちろんない。著者のこのような怒りにはちゃんとした裏付けがあり、その理路をたどる中で、次の3つの重要な示唆を得ることができた。
1.『年次改革要望書』の存在
2.「日本=事前規制型社会」と「米国=事後調整型社会」という切り口
3.公開情報だけを使っても十分に深い洞察を得られる、ということ

1.『年次改革要望書』の存在
恥ずかしながら、『年次改革要望書』というものがあったことを、この本を読んで初めてを知った。『年次改革要望書』とは、毎年10月に、アメリカ合衆国(以下「アメリカ」)が日本政府に対して通告してくる公式文書で、その内容は、内政干渉ともいえるほどの厚かましい一連の改革要求案から成っている。例えば、2001年の『年次改革要望書』では、対象分野は、電気通信、情報技術(IT)、エネルギー、医療機器・医薬品、金融サービス、競争政策、透明性およびその他の政府慣行、法制度および法律サービスのインフラ改革、商法、流通、と多岐にわたっている(しかも、この中には、「政府慣行」「法制度」「商法」といった日本の社会制度の根本に関わるような項目も含まれている)。それぞれの項目について、市場開放、自由化、規制緩和、非関税障壁の撤廃など、米国の企業や弁護士などが日本市場へ参入するのを容易にするための極めて具体的な要望が列挙されている。その分量は、和訳版で54ページ、400字詰め原稿用紙で200枚を超える分量だ。
なお、この要望書は、日米間で相互に取り交わす双務的な制度、という建前となっているが、日本からアメリカへ提出された要望書は、アメリカからのものの四分の一の分量だ。内容的にどの程度重要な要望をアメリカに対して行っているかは、僕には判断しかねるが、本書によればこの要望書は「外圧の一手段としてアメリカから提案されたもの」なので、腰の入り方が全く違うはずだ。両国の要望書ともに、公開文書なので原文が閲覧できる(Wikipediaに便利なリンクが張ってある)。
この『年次改革要望書』は、宮澤-クリントン会談での合意を受けて1994年に始まり、以来毎年、相互に提出され続けており、日米当局者が定期的な点検会合を開いて進捗状況のチェックまで行われてきたということだ。その後、この『年次改革要望書』は、民主党鳩山政権時代の2008年版を最後に廃止された(それに代わって、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加を要請されたらしいが、これについては要調査)。なお、本書の出版されたのは2004年なので、『年次改革要望書』はまだ毎年提出されていた時期だ。
アメリカの国益を全面に出した大変押しつけがましい要望書で、時に日本の国益に反する内容のものも含まれていたにも拘らず、歴代の日本政府は、むしろ積極的かつ忠実にそれらの要望を実現化していったようだ。したがって、著者は、以下の様に言う。

これから数年後の日本に何が起きているか。それを知りたいと思ったとき、必読の文献がある。アメリカ政府が毎年十月に日本政府に突きつけてくる『年次改革要望書』である。

『年次改革要望書』には、日本の基幹産業や社会制度に関して、政府が本気で取り組む可能性が高い要求案が列挙されており、しかも、それが公表されているのだから、日本国民の多くに関わるはずの重要な文書のはずなのだが、どういうわけか、マスコミは、一度もこの要望書の全文を報道したことがないらしい。

2.「日本=事前規制型社会」と「米国=事後調整型社会」という切り口

「事前規制型社会」というのは、要するに御上の行政指導のもと、業界団体が内輪で利害調整を行い、さまざまな約束事をあらかじめ”談合”しておくことによって、競争から生じる摩擦をできるだけ前もって回避しようとする社会、つまり秩序や協調を重視する日本的社会そのものである。
一方「事後調整型社会」とは、行政による規制や業界による事前調整を一切なくして、誰にも自由にやらせて好きなようにとことん競争させる、それでなにか問題が起きたら、そのとき裁判で争って解決すればよい、とする社会で、自由放任と自由競争を重んじるアメリカ型の社会といえる

まさに言い得て妙、僕が仕事を通じて感じている日米の違いをうまく要約してくれている。仕事上、何か新しいことに取り組もうとする時に、日本の顧客や本社からは、しばしば、いくつかの想定されるシナリオごとに、起こる可能性のある問題とその対応策を予め策定してレポートして欲しい、といった依頼がある。これなど、問題を事前に回避したいという強い意向の反映の最たるものだ。おそらく、心配性と高い抽象的思考能力(つまり、まだ起こっていないことを頭の中で思い描く力)という日本人の傾向のなせる業だろう。しかし、結局、散々苦心惨憺して想定した想定問題とその解決策が、思いもよらなかったことが起きたために全て使い物にならなかった、という結果になることもめずらしくない。なんというエネルギーの無駄遣いか。
一方、アメリカ人が中心になって進められるプロジェクトでは、とにかくやってみて、何か問題があったら、それを皆で全力で解決、その原因を究明し、改善を図って次に進む、という具合に展開していく。
職種にもよるのだろうが、おそらく、大部分の「仕事」については、後者のアメリカ型、つまり、「事後調整型」のほうが結局うまくいくような気がする。そもそも、起こりもしていない問題を「想定」して、しかもその解決策まで「準備」しておく、という発想は、アメリカ人には非常に難しい、というよりも、甚大な無駄・浪費と映るのだろう。仕事上の問題は、起こるまでは問題ではない、という発想がアメリカでは一般的だと思うし、大部分の仕事はその発想でうまく進められると僕も思う。(もちろん、全ての分野で、ということではなく、たとえば災害予防や医療といった、人命が関わるような分野などでは、当然、問題の事前把握・回避に全力を尽くすことにアメリカ人も異存はないはずだ。)
しかし、著者が述べているように、これが、日本の法制という社会制度の根幹について、日本型からアメリカ型に移行せよという要望としてなされる場合は問題だ。法制において、「事後調整型社会」といえば、アメリカ人の間でも相当問題視されていると思われる訴訟過剰社会、ということになる。長年社会に根付いてきた法制を、簡単に変えるべきではない、という著者の意見に賛成だ。

3.公開情報だけを使っても十分に深い洞察を得られる、ということ
著者は、本書で、上記以外にも、様々な分野で進められているアメリカによる日本に対する内政干渉と、それに対して日本政府が嬉々として応じている例を多く挙げている。一見、大国の陰謀や政治の裏側を描いているように見えるが、著者はそのような各種事例を、全てインターネット上や国公立図書館で公開されている公式資料だけを使って入手したそうだ。そして、参照した資料の名前と出所も丹念に記載しているために、それらをもとにした著者の解釈・意見について、読者は、自分自身でその資料に当たって検証することができる。そのために、冒頭に引用したような、やや行き過ぎた感情的表現があっても、さほど僕には気にならなかった。むしろ、その意見の根拠となった資料に自分でも当たってみて、自分なりに考えてみよう、という気持ちにさせてくれる。いくら著者の意見が偏っていても過激でも、この反証可能性が、この本の「科学性」を担保している。

以上のように、日米関係について考えるきっかけと材料を提供してくれた、という点で、この本は貴重だ。とりあえず、『年次改革要望書』に代わって登場したTPPについて自分なりに調べてみたいし、仕事のやり方についても引き続き日々考えていきたい。
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「デフレの正体」 藻谷浩介 著

角川oneテーマ21 2010年6月10日 初版発行
2014年8月4日読了

なんとなく見ていたNHKのビジネス関係の番組で、ゲストの一人が発したコメント「経済の目的は金儲けではなく、『継続』です」が心に響き、ウェブで検索したところ、それが藻谷浩介氏だということが分かった。氏の著書で、4年ほど前にベストセラーになった「デフレの正体」を読んだ。検索の過程で、著者が、2011年9月に、本書を批判したブログへの書き込みに関して、ブログの書き手から人権侵害を理由とする損害賠償請求の民事訴訟を起こされ、札幌地裁から10万円の賠償命令を受けたことも分かったが、とにかく読んでみた。

読んでよかった。

日本経済の低迷の原因は、最も消費意欲の旺盛な生産年齢層(15歳~64歳)の人口減少による内需の縮小のため、と分析し、日本経済再生への対応策として1.高齢富裕者層から若者への所得移転、2.女性の就労と経営参加、3.外国人観光客・短期定住客の受入、の3つを挙げ、それぞれに具体的な実行案を提示している。
論旨が明快で、読みながらいろいろと考えるきっかけを与えてくれる良書だと思う。

読後、気にかかっていた訴訟のことをやや詳しく調べてみた。(こんな時、ネットは本当に便利だ。)
原告は、「高校生からわかるマクロ・ミクロ経済学」(河出書房新社)の著者で同名のブログも展開している菅原晃氏だ。菅原氏がそのブログ上で、本書を批判したところ、藻谷氏が当該ブログのコメント欄に以下の書き込みをし、この文章が菅原氏への人権侵害となるかが争点となった。やや長くなるが全文を引用する。

「そんなことはわかってますが
わかってますよ。ですが、対外債権が積みあがっていることすら知らない人が余りに多いので、このように書いているのです。問題は内需が減少する一方のために、対外債権が幾ら積みあがろうと国内投資も増えないということですよね。その原因は、あなた方の言っているコンベンショナルなマクロ経済学で解けるのですか? 日銀がインフレ誘導すれば内需は増加すると? あなたは、7章と8章をどう読んだのか? そんなことはとっくに知ってたのですか? 三面等価なんて、資産が腐る世界では意味がない、そのことをわかって使っていますか? 「自分は経済学を知っている、こいつは勉強していない」、そんなつまらない矮小なプライドでモノをいうなってんですよ。経済学なんてどうでもいいのです。枠組みはどうでもいい。対外資産が積みあがるだけで何の役にも立たない、なんて老人の繰言を言うな! なんとかしようと考えないのか? あんたみたいなあたまでっかちしかいなくなったから、自慢できることが実践ではなくて理論だけだから、日本はだめになるのだ。くやしかったら、自分の実践を少しでも語ってみろ。対外資産の増加を国内に少しでも還元する努力をしてみろ。そうでなければ外国に引っ越せ。あるいは早く死んで子供に財産でも残せ。そういうことです。
言い直します。それだけ理解力があるのであれば、実践力もあるはずだ。早く正道に戻ってください。
2010/07/16 01:24」

藻谷氏の上記コメントは、菅原氏が初めて同書の批判を行ったブログ上でのみなされ、その後は、このコメントについて、もっぱら菅原氏が、藻谷氏の経済理論の理解不足という点を、詳細に、20回に亘って行ってブログ上で論証した。全て読んでみたが、菅原氏の批判は、藻谷氏が使用する経済学用語、たとえば「付加価値」や「貿易黒字を稼ぐ」や「貯蓄を消費に回す」といった言葉が適切に使われていない、これは、藻谷氏が経済学の初歩を知らないからだ、という趣旨のものが中心だ。

菅原氏の批判文は、先生が生徒の書いた答案に、赤ペンで事細かに訂正を入れている、といった体のものだ。所詮、先生-生徒という閉鎖的な関係の中でのみ例外的に成立するような類のコミュニケーションにすぎず、その批判が、何らかの有意義な成果物を生み出すきっかけとなるとは思えない。内に籠る批判、間違いを指摘するためだけの批判とでも言おうか。

一方、藻谷氏の著書「デフレの正体」は建設的な提言の書で、菅原氏の文章とは対照的に爽快な読後感がある。確かに、上記の藻谷氏のコメントには乱暴な言い回しが含まれており、読んでいて気持ちのいい文章ではない。しかし、藻谷氏の著書自体は、日本経済の将来像など様々なことを考えるきっかけを与えてくれる、という点で、菅原氏の批判文に比べて圧倒的に面白い。

ネットのおかげで、その本だけでなく、それに対する批判文も併せて読んで考える、という今までにない新しい方法で読書を楽しむことができた。

創造論 対 進化論

スティーヴン・ジェイ・グールドの「パンダの親指」(櫻町翠軒訳、ハヤカワ文庫)を読み返している。氏は、古生物学と科学史のハーバード大学教授で、進化論に詳しい。氏の文章には、著者自身がどこかで書いていたように、専門的な事柄については決して「容赦しない」、つまり、正確性を損なうことなく、また、複雑なことを素人向けに変に簡略化しない、という方針が貫かれた文章は、ユーモアに満ちた語り口と相まって、気軽な読み物を超えた面白さがある。
数年ぶりに読み返そうと思ったのは、創造論(旧約聖書に記載の地質年代史を絶対に正しいものとする考え方でこれによると、地球の歴史は約6,500年で、すべての生物はそれぞれの種ごとに神が創造した、ということになる。)対進化論の法廷論争の経緯と結末をもう一度調べてみたいと考えたのがきっかけだ。信じられないような話だが、進化論を高校の生物の授業で教えることを禁じたアーカンソー州法が、80年代後半に連邦憲法上違憲とする判決が出るまで存続していた。しかも、この創造論が、単なる狂信者の空言では片付けられないくらいの大きな影響力を国民に与えているということは、グールドほどの見識の高い学者が真剣にこの論争に加わらなければならなかった、ということからして明らかだ。日本ではまずこのようなことは論争にもならないだろう。高名な古生物学者がまともに相手にするはずもないからだ。米国で、つい最近まで続いていたこの論争の発端、経緯、結末を知りたくてグールドの本を再読し始めたのだ。(前回読んだときには、単にばかげた論争をしているとの印象を持っただけで、あまり関心を持てなかった。)
米国では、日本におけるよりもはるかに多くの人が信仰を持っている。この、宗教の重みの違いが、日本ではありそうもないこの種の論争が、米国では広く社会的な関心を呼ぶことになった原因だろう。信仰は、その人の人生の根本をなす何よりも価値の高いものである。信仰を持って生活している人にとって、進化論にせよ、他宗派からの攻撃にせよ、自分の信仰している事柄を否定されることは、不快な経験だろう。まして、進化論が自分の子供の通う学校で教えられることに、敬虔な信仰を持つ親たちが反対するのは自然な流れだろう。
しかし、科学は信仰ではない。科学においては、検証しなければならず、信じてはならない。信仰においては、信じなければならず、検証してはいけない。そもそも、まったく違う領域に属する進化論と創造論とを並べて、どちらが正しいかを論じることは、初めから不可能なことだ。
生態系システムに内包された進化という壮大なメカニズム、人体の諸器官の驚くべき機能、雪の結晶の信じられないような美しさなど、自然界は目を見張るような事柄で満ちている。これらのものは、まさに神が創ったとしか思えないくらい精巧で美しい。創造論が科学的に見ておかしいと結論付けられても、神の御業がいかに驚くべきものか、ということが否定されるわけではなく、逆に、科学的な研究・観察を進めれば進めるほど、そこに驚くべき自然の姿を見出し、神の力というものをより強く実感できるようになるのではないだろうか。優れた科学者ほど信仰深い、ということは、実にありそうなことだ。科学と信仰とは、存立の基盤は異なるものだが、その隔たりは決して大きくなく、特にそのどちらかをまじめに極めようとしている人にとってはむしろ自然に両立するものなのではないだろうか。

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プロフィール

内之助

Author:内之助
マラソンは、2008年12月のホノルル・マラソンをもって、全米全州(50州+DC)でフル・マラソンを夫婦で完走。その後、トレイルでのウルトラ・マラソンを経て、今はタイムを気にしなくても良い登山やハイキングを楽しんでいる。
音楽は、中学校1年生の時に、FMで偶然耳にしたモーツァルトの喜遊曲がきっかけでクラシックにのめり込む。
読書は、ノンフィクション中心に、同じ著者のものをまとめて読む傾向あり。小林秀雄、吉田秀和、カール・ヒルティ、スティーヴン・ジェイ・グールド、内田樹、茂木健一郎など。
仕事はサラリーマン。1995年以来ニューヨーク市郊外在住。

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